株式会社INGS 青柳誠希社長インタビュー(前編)3本の柱を育てる経営戦略

ラーメン、イタリアンバル、焼売と幅広い業態で約120店舗を展開する株式会社INGS。未経験でスタートさせた一店のラーメン店からどのように事業を拡大させたのか。前編では、株式会社INGSの代表取締役 青柳誠希社長に、イタリアンバル「CONA」のM&Aから「らぁ麺 はやし田」「焼売のジョー」誕生までの経緯についてお伺いしました。


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記者)飲食業界に入られたきっかけを教えてください。

青柳氏)学生時代はずっとスポーツをやっていまして、大学でも寮に入りながらラグビーを続けていました。しかし大学3年生の時に大きなケガをしてしまい、スポーツから離れることに。次に何をしようかと悩んでいた時に、ちょうど父がゴールデン街や新宿三丁目で何店舗かバーを経営していた影響もあり、飲食でのアルバイトをしてみようかなと思い始めたんです。父のすすめもあり、最初は父の経営する店のバーテンダーからスタートすることになりました。

当時は本当にスポーツしかやっていなかったので、社会というものをよく知りませんでした。父の店で働きはじめてから、ようやく父の仕事や飲食の世界を知ることとなり、その経験を通じて社会がぼんやりと見えてくるようになったんです。そして同時に、将来は飲食業界で働きたいと思うようになっていきました。

就職活動は飲食業界を中心に活動し、2社から内定をいただきました。どちらにしようか考えていた頃に、父が経営する新宿三丁目の店の隣のラーメン屋が辞めるので引き継いでみないかという打診がありました。立地は非常によかったのですが、父はラーメンの経験は一切なし。それならばと私に話が回って来たんです。正直当時はラーメンにそれほど強い関心はなかったのですが、飲食の経営経験を積む絶好のチャンスだと思い、友人と一緒に大学4年生のタイミングで2006年11月にフランチャイズ店舗をスタートしたのが創業です。

記者)初めての飲食店経営であり、しかも完全に未経験のラーメン。苦労はありませんでしたか?

青柳氏)実は結構順調だったんですよ。フランチャイズ元は長野の会社で、味はそのまま引き継ぎました。最初はラーメンについて全く知識が無いので、その味やオペレーションをただひたすらにまじめにやっただけなんです。一方で、引き継ぐ前の店が少々いいかげんなところがある店だったので、客足は悪くないにせよ特別良くもないという状態で…そこで開店・閉店の時間をしっかり守ったり、接客に気を配ったりと、店舗運営の面はしっかり引き締めました。その結果、お客さんの評判がよくなり、売上が順調に伸びていくようになったんです。

記者)未経験ジャンルでの店舗成功。かなり手応えはあったのではないでしょうか。

青柳氏)そうですね。結構いいスタートを切れたという実感はありました。とはいえ、休みも少なく給料もあまり高くない。チャンスがあればもう一店舗やってみたいなとは思っていました。

その後2009年3月に法人化し、株式会社INGS設立。さらに約1年後、創業から約3年で西新宿の小滝橋通りへ2店舗目を出店しました。ここはフランチャイズではなく、私たちにとって初めてのオリジナル店舗です。この3年後の間に、自分たちで模索を重ねてきた成果や構築してきた人間関係、身につけた知識が形になったと思っています。

記者)初のオリジナルブランドでの出店。結果はいかがでしたか?

青柳氏)もともと小さなお店だったので、悪くはありませんでしたがものすごくいいというわけでもなく…普通でしたね(笑)。立地はよかったのですが、小さな頃から新宿近辺に住んでいて、1店舗目は都内でも屈指の立地の新宿三丁目。そんな環境に慣れすぎていて、成功体験のハードルが高かったと思います。オリジナルのものを作れば店内にものがあふれていくし、毎日スープは作らないといけない。想定外の事態も多かったですね。しかし後々に活きる勉強ができる機会となったので、とてもいい経験になったと思います。

記者)その後はしばらくラーメン一本で進んだのでしょうか?

青柳氏)いえ、2店舗目の後、2011年11月にCONAのフランチャイズに加入しています。この頃、高校のころから友人だった中元孝太(株式会社ヴィクセス代表取締役社長)がCONAで独立するときに、その立ち上げを手伝ったんですね。私自身、父がバーやアイリッシュパブを経営していた影響もあり、いずれお酒を売りたいという希望を持っていました。その観点からCONAを見たときに「この業態は面白い!」と直感で感じたんです。それで立ち上げを手伝いながら、フランチャイズ元のキャンディーBOXの社長に「自分も新宿三丁目でやらせて欲しい」と売り込み、そのまま加盟したという流れです。

この後CONAはどんどんと店舗を拡大していきますが、当時はまだ3~4店舗くらいの規模だったと覚えています。

記者)その後はCONAの出店がメインとなったのでしょうか。

青柳氏)そうですね。新宿三丁目は実質兄が経営する店舗だったので、私自身による初出店は上野になりました。これが本当にすごいインパクトで。それまでやっていたラーメン屋では売れても月に500万ちょっとという規模感だったところが、CONAを始めたらいきなり1,000万円くらい売る店になったんです。これにはものすごい衝撃を受けました。同時にCONAの可能性を確信したので、好立地にCONAを連続して出店するようになりました。

記者)初めてのフランチャイズであるCONAは大成功しました。その後、いろいろなフランチャイズに加盟されているイメージがあります。

青柳氏)立て続けにCONAに加入した後はダンダダンさんを1店舗。またアガリコさん、USHIHACHIさんにも加盟しています。本当にいろいろやりましたね。一方で、ラーメン事業だけは自分たちでコツコツやっていました。

記者)フランチャイズ攻勢の裏で、ラーメン事業は自分たちだけで進めていたんですね。

青柳氏)はい、CONAに比べればゆっくりとですが、展開は続けていました。徐々にラーメンが好きなメンバーが集まってきていて、当日限定ラーメンのような試みに少しずつチャレンジしているうちに、いろいろなラーメンを作れるだけのノウハウがたまってきたので、2017年に「らぁ麺 はやし田」をオープンさせました。一号店は新宿の伊勢丹裏。これが想定以上のヒットを見せてくれたので、ラーメン事業も積極的に出店するようになっていったんです。

記者)フランチャイズから再び自社展開のラーメンへ。さまざまなフランチャイズに加盟した経験は、ラーメン事業のノウハウ蓄積には影響しましたか?

青柳氏)それはありますね。様々なFCに加盟することで、こんなやり方があるんだ、といろいろ見せていただけたと思います。特にダンダダンさんは上場される中で、店舗が増えてもオペレーションやブランディングを崩さないやり方を確立されていました。この辺りを見せていただけたのはありがたい経験だったと思っています。

記者)CONA、ラーメンに続く三つ目の柱として、「焼売のジョー」が誕生したきっかけは何でしょうか。

青柳氏)2018年にキャンディーBOXをM&Aしたのが大きなきっかけです。当時はCONAが50店舗ほどある中、当社がターミナル駅への出店を多くやらせてもらっていました。各店舗好調ではありましたが、一方でいい物件があっても出す店がないという機会ロスが結構生まれてしまいまして。そうしたロスを生まないためにも、違う業態も持っておきたいと強く思うようになっていたんです。

業態探しは「CONAのノウハウを活かせるもの」という基準で考えていました。候補の中には早いうちから焼売がありましたが、「餃子は売れているが果たして焼売は売れるのか」という疑問をずっと抱えており、踏み切れないでいました。しかしあるとき福岡で大成功している有名な焼売屋を見て、焼売の可能性を強く感じたんです。最終的に箱のサイズや出店立地、内部のオペレーションをCONAとほとんど変わらない状態までもっていけたので、コロナ禍中ではありましたが、CONAとダンダダンが好調だった川崎に「焼売のジョー」第1号店を川崎にオープンしました。

コロナ禍だったので、オープンのタイミングは悩みましたが、すでに物件を押さえていたこともあり計画通りにスタートさせました。いけるだろうという希望は持っていましたが、はじめの結果は正直弱かったですね。しかし3店舗目の町田店を出したところ大きく突き抜けた売上を出してくれたので、安心とともに「焼売はいける!」と大きな自信になりましたね。

記者)コロナの感染拡大は御社にどのような影響を与えましたか?

青柳氏)CONAを含めたお酒を出す業態はかなり影響を受けましたね。デリバリーもやりましたが、プラスになるわけではありませんでした。もっと苦しむと予想していたのですが、ターミナル駅の店舗が多かったことや客層が若者だったこともあって、営業さえできれば戻るのは早かったなという印象を持っています。反対に、ラーメンはコロナ禍においてすごく伸びてくれました。デリバリーでも思ったより売れましたね。

記者)客層が若いとのことですが、もともとそのようなターゲットを想定して作られているのですか?

青柳氏)CONAの成功もあったので、焼売のジョーの方も若い層に向けていたところはありますね。

後編へ続く


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