【外食アワード2021受賞】株式会社 DREAM ON 代表取締役社長 CEO 赤塚元気氏インタビュー【前編】「居酒屋甲子園」誕生秘話

全国から集った1,700を超える居酒屋が日本一の座を争う「居酒屋甲子園」。飲食業界における一大イベントを自ら立ち上げ、過去の2度の優勝を果たしたのが株式会社DREAM ON COMPANYの赤塚元気社長です。大学卒業直後に抱いた「日本一の居酒屋を作る」という夢を実現し、今なお多くの笑顔を生むべく事業に邁進。東京・愛知を中心に、23の業態を展開(2022年2月現在)しており、2021年外食アワードを受賞されました。前編では、数々の業態を生み続ける赤塚社長の原点となるエピソードと、企画運営に携わった「居酒屋甲子園」の誕生秘話についてお話いただきました。


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記者)どのようなきっかけで飲食を志したのでしょうか。
赤塚氏)一人暮らしを始めた大学時代に、先輩に誘われて楽グループの「汁べゑ」にアルバイトとして入ったのがきっかけです。「新しいバイトを連れていったら焼肉をおごってもらえる」という理由で連れて行かれましたが、結果的にとても楽しい4年間になりました。当時は楽グループの存在すら知らない中での初めてのバイトでしたが、毎日遊んでいるくらいの気持ちで楽しく働いていたので、その時からこれが仕事になったらいいな、将来もずっと飲食の世界にいたいと思っていました。

卒業後はそのまま楽グループへの入社も考えたのですが、愛知で父親が1店舗だけやっていたマルシェグループの「酔虎伝」を継ぐことになりました。元々父はアミューズメント事業を展開しており、飲食のノウハウはほとんどなく、あまりうまくいっていなかったので閉めようかという話になっていたんです。そこで「どうせ辞めるなら俺にやらせてくれ」と直談判し、卒業した年に店長となりました。

記者)そのまま酔虎伝の経営を引き継いだのですか?
赤塚氏)いえ、自社業態である「笑顔専門店 炙一丁」に店名を変えて再スタートしました。父が北海道に旅行したときに、目の前で食材を炭火であぶって出すシンプルな業態の店にいたく感動しまして。それを真似た炙りの店にしようということで、北海道から食材を仕入れた炙り居酒屋に業態を変えました。内装はそのままに、大きい水槽にカニを準備して、オープンのカウンターでお客様の前であぶるスタイルでした。

記者)いきなりの店長就任に周囲の反応はどのようなものだったのでしょうか?
赤塚氏)最初はさんざんでしたね(笑)酔虎伝で働いてくれていた社員がいる中で、いきなり大学卒業したばかりの料理もできない、数字もわからない社長の息子が店長になるのは、周りから好まれる状況ではありませんでした。また元々酔虎伝の時の売上がどん底だったこともあり、スタッフのモチベーションもかなり低い状態でした。

 

記者)そのような環境からどのように盛り返したのでしょう?
赤塚氏)父に相談したところ「年上の経験者についてきてもらおうと思ったら、言葉ではなく行動で示さなければならない」と言われたんですね。そしてその行動はシンプルに「早く来て遅く帰る」だけだとも。今思うとブラックなんですけどね。それを聞いて、誰よりも早く来て遅く帰ることを実行しました。

当初は14~15時頃に出社して17時にオープンが普通だったので、お昼の12時に来ようと思ったのですが、ふと「赤塚元気の本気は何時だ?」と自問自答したんです。その結果、僕の出社時間は朝7時になりました。

店長就任当初から、僕は「日本一の店を作ろう」と宣言していました。最初は誰も信じていませんでしたが、朝7時からいる店を綺麗にしたり、ビラを配ったりする僕の姿を見てだんだんと周囲に本気が伝わり、早くから来てくれる人が増えてきました。そうこうしているうちに、酔虎伝時代には月商600万だった売上が半年で1,200万になり、やがて1,800万を超えるようになってくれたんです。

記者)まさに社長の背中に人がついてきてくれたのですね。早く出勤するほかに何か考えていたことはありますか?
赤塚氏)店の仕組みをいろいろ作り替えました。その基本となったのは、学生時代の楽グループでの経験、卒業後に入った管理者養成学校での学び、そして渡邉美樹さん(ワタミ株式会社代表取締役会長兼社長)の講演という3つの要素です。

営業は元気に楽しくやるというのが楽グループで培った価値観です。その一方で、卒業直後に父に入れられた管理者養成学校で学んだ社会人としてのマナー、考え方にとても影響を受けました。挨拶をするときには指先を揃えて大声で、なんていう考えはそれまで持っていなかったので衝撃的でした。元々の楽しくやりたいというベースは大切に、メリハリをもってビシッとするところはビシッとする。元気な楽しさの中に厳しさを取り入れた結果が、名物にもなった店舗前で行う朝礼の誕生に繋がっています。

3つめの渡邉美樹さんの講演は、父が東京に行く時に連れていってもらいました。会社や店舗の仕組みについていろいろお話いただいたのですが、その中にパートさんの話があったんですね。業務の一部分だけパートさんにお任せして業務効率をアップすると。当時の僕は、23時閉店後に掃除や反省会をやって3時頃帰宅。翌日は7時から出社する生活の中に、誰かに任せる部分があるなんて考えたこともありませんでした。渡邉さんのお話を聞いて初めてパートさんに仕込みを手伝ってもらうようになり、店としての仕組みが上手く回るようになってきたように思えます。

記者)さまざまな改革の陰にお父様のご助言がきっかけになった部分も大きいように感じられます。
赤塚氏)父は社長としていろんな学びを与えてくれましたね。社長を継げと言われたことはありませんでしたが、僕が社長になるように着々と準備は進めていたのだと思います。最終的に自分から社長をやらせてくださいとお願いしたので、親から言われて決めるようなことはさせなかったですね。経営の原理原則を教えてもらったと思っています。

記者)様々なことを柔軟に取り入れながら経営者としての経験を積まれていったのですね。大きな変化に対して周囲の反発などはなかったのでしょうか?
赤塚氏)社員では辞めた人はいなかったですね。ただ、酔虎伝時代に働いていたアルバイトも、お客様ですらもう来てもらわなくていいと思っていたことがあります。自分たちの作りたいお店は、お客様に感謝してお客様に感謝されるお店だったのですが、酔虎伝からのお客様からは割引を要求されることもあり、なんだか描いている理想像とは違うなと。今振り返るとそのような考えは若気の至りで、感謝の足りない人間だったと思います。

記者)葛藤があった中で、自信が付いたのはいつ頃なのでしょうか。
赤塚氏)結果としていろいろ手を加えましたが、最初から根拠のない自信は持ち続けていましたね。汁べゑでの経験が「自分ならできる」「よい店を作れる」という気持ちを支えてくれていたと思います。

実際には店長になってから数ヶ月後にP/Lを初めてみて、赤字の額にびっくりしたこともあります。そこからまた数字を勉強して、改善のための取り組みもして。遠回りもあったかもしれませんが、自分が理想としている店作りには着実に進んでいる自信がありました。

記者)2店舗目の出店は1年後とのことですが、初めての多店舗展開に悩みはありましたか?
赤塚氏)店を増やさないと社員のモチベーションが上がらないように思えました。かといって店を増やしてみると、今度は人手が足りなくてモチベーションが下がる。自分が現場に入ることで改善できた部分もありますが、何が正解かは未だにわかりませんね。今でもオープンして1か月くらいは現場に入るのが僕流のやり方です。

 

記者)多店舗展開の方法について、誰か参考にされている方や業態はありますか?
赤塚氏)牛角を作った西山知義さんがお師匠さんのような方で、いろいろ教えていただいています。西山さんの出店戦略は駅を基準にされています。業態を作る前からマーケティングを行い、想定したターゲットや単価が受け入れられる駅は全国に300か所あるから、同じ業態で300店舗出店できる、という考えで展開されていました。

僕はもともと目が届く範囲でやりたかったので、同じ駅のエリアに4~5店舗、それぞれ異なる業態を出店する形をとっていました。ただ、これでは様々な業態を同時に見ないといけないので、ある店舗の業績が悪くなった場合、他の業態に影響を出さないように改善に注力することが難しかったのです。そうなって初めて、エリアにこだわるのではなく、西山さんのように業態を絞ったうえで場所を探すという出店戦略の方が業績改善がしやすいと実感しました。一般的には、ドミナント戦略やひとつのエリアに違う業態を数店舗を展開していくのがよしとされる傾向がありますが、無闇に業態を増やすやり方はあまりおすすめできないと思っています。

記者)赤塚さんのキャリアの中では「居酒屋甲子園」が大きな転機になっているように思えます。居酒屋甲子園はどのようなきっかけでスタートされたのでしょうか。
赤塚氏)「てっぺん」の大嶋啓介さんとの出会いが始まりでした。自分が22歳、大嶋さんが25歳のときに、「かぶらや」の岡田憲征社長と父がお互いの会社で講演するという話がありました。父が「かぶらや」さんに行ったとき、僕はかばん持ちとして同行していました。その時に父の話に目を輝かせながら食いついていたのが大嶋さんです。岡田社長が来られたときには大嶋さんが同じくかばん持ちとして同行していて、「炙一丁」の朝礼を見て大嶋さんが大変驚かれたそうです。それ以来、僕と大嶋さんの直接の交流がスタートしています。

その後、僕が26歳のときに大嶋さんが日本全国100人の社長に会いにいくという企画を始めました。その中で「大阪に面白い店長がいるから会いにいこう」と言い出して、付いていった先でお会いしたのがリンク・ワンの深見浩一さん、当時焼き鳥屋の店長をやっていた神山さんです。4人で飲みながら飲食業界の未来についてこうしていきたいよね、と志を語り合いました。飲んだ勢いの口だけにならないように「1カ月後にそれぞれ企画を持って集まろう」という約束をしたんです。

1カ月後に再会したときに大嶋さんが持ってきた企画が、レインズさんのパートナーズフォーラムから着想を受けた、日本全国から強者の飲食店が集まり刺激しあう大会というものでした。残りの3人はその話に食いつき、自分たちのアイディアはそっちのけ。全国の頂点を決めるから「居酒屋甲子園」がいい、と4~5時間話し合いながら盛り上がったんです。それから同世代の共感してくれる人たちに声をかけて、実際に「居酒屋甲子園」を立ち上げました。

その後自分たちで主催したイベントに、実行委員でありながら自分も出場することになりました。1回目は決勝で負けてしまって。日本一の店をやっていると真剣に言っていたので、1位を取ることができなくて非常に悔しかったですね。2回目にはスタッフがみんなで「元気さんを胴上げしよう」と盛り上がってくれたおかげもあり、団結して優勝を勝ち取れました。その後第8回にも優勝させていただいています。

記者)みんなの意識も変わっていって、日本一の夢が叶ったわけですね。当時ずっと居酒屋甲子園を続けていこうと考えられていたのですか?
赤塚氏)いえ、居酒屋甲子園が続くかどうかは見えていませんでした。続けるのって大変ですから。我々が決めたことのひとつに「世代交代をしたら運営方針には絶対に口を出さない」というルールがありました。だから引き継いでからは一切関わっていません。その世代ごとに伸び伸びとモチベーション高くチームを作って運営してくれればいいなと思います。

後編へつづく