株式会社ガネーシャ 本田大輝社長インタビュー(前編) 富山発・世界に挑むSHOGUN BURGER成功の秘訣

富山発のグルメバーガー「SHOGUN BURGER」や家業の焼肉屋など、多方面に活躍する肉のプロフェッショナルである株式会社ガネーシャの本田大輝社長。宮迫博之さんプロデュースの焼肉屋「牛宮城」のサポートに名乗りを上げ、一躍時の人となりました。 今回は、本田氏が展開するSHOGUN BURGERの紆余曲折からの大ヒットの裏側を伺いました。


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記者)飲食業界に入られたきっかけを教えてください。

本田氏)今年で35年目になる富山の焼肉屋「大将軍」の2代目として生まれました。上に2人兄がいたため継ぐ予定はなかったのですが、私が大学在学中に兄がふたりとも継がないことになり、両親から私が継ぐようにと打診があったんです。

やるかどうか決めかねていたときに、両親から「食べ歩きをしろ」とクレジットカードが送られてきたんです。当時の私は飲食に関わった経験がほぼ無く、接客業のアルバイトもすぐに辞めてしまうほど、お客様商売が苦手だという自覚がありました。しかし焼肉屋の経営には興味がありましたので、当時彼女だった現在の妻と一緒に焼肉屋巡りを始めました。

記者)いきなりクレジットカードを送ってくれるとは、大胆なご両親ですね。

本田氏)12~13年前の当時は、まだ食べログも無い時代です。ふたりでいろいろな店を巡っている中で、衝撃を受けた2つのお店と出会いました。ひとつが南青山の肉割烹「よろにく」。もうひとつが歌舞伎町の韓国料理屋「TEJI TOKYO」です。

「よろにく」ではオーナーのVANNEさん自らお肉を焼いてくれて、「TEJI TOKYO」でもスタッフが肉を焼いてくれるサービスがありました。両店に共通していたお肉を焼いてくれるサービスに、当時の私はとても衝撃を受けて、飲食についてこういう店で勉強したいと思うようになったんです。しかし、どちらも素晴らしいお店でしたが2店舗同時には働けませんので、妻がよろにくに、私がTEJI TOKYOで働くようになりました。

 

 

記者)初めての飲食業界の経験はいかがでしたか?

本田氏)月並みな感想ですが、とても勉強になりましたね。TEJI TOKYOで働いていたのが3年間。当時23歳という年齢にも拘らず、店の立ち上げや低迷している店舗の改善などを幅広く携わらせていただきました。社長が自分の2歳年上で、チームは自分を含め23~25歳ばかりのとても若いチームでしたので、勢いがあって楽しかったですね。どんどん大きくなっていく感覚を日々感じていました。

ただ、いずれ富山に戻って実家を継ぐ予定がありましたので、最初から2年で辞めるという話はしていました。最終的には仕事が面白い上に学び足りないと感じていたので、1年伸ばしてもらって3年で富山に戻っています。

記者)東京で経験を積んだ上でご実家に戻られたわけですが、家業の経営にはスムーズに入れたのでしょうか?

本田氏)実ははじめは全くうまくいかなくて。実家の「大将軍」は富山では結構有名な焼肉屋でしたし、自分も東京で売上を2倍にした経験に自信があったので、正直「簡単だろうな」と思っていたんです。しかし当時の店が本当に暇で、3店舗の売り上げの合計が東京の1店舗分程度しかありませんでした。しかも店舗ごとの客数を把握しておらず、日商も月商も分からない。さらに社員の不正行為が多発していて、倒産しかけている状態だったんです。あと1年東京で働いていたら、恐らく潰れて無くなっていたと思います。

記者)その状態で家業を継ぐ話は進んだのですか?

本田氏)はい。実家に戻ったときには専務の肩書きでしたが、まず1店舗の店長からスタートしました。オペレーションの改善や評価制度の整備を進めつつ、売上の改善に同時並行で取り組んでいました。

厳しいながらも3年ほどで盛り返した後、初めてのオリジナルブランドの店である「BUTAMAJIN」という韓国料理屋をオープンしました。TEJI TOKYOでずっと韓国料理を学んでいたので、得意なサムギョプサルで勝負しました。正直に言うと”ちゃんと勝ちたい”と思ったんですよね。これが狙い通りに結構ヒットしてくれたおかげで、会社の雰囲気が少し上向きになったのを覚えています。

 

 

記者)耐え忍んだ末にようやく結果が出てきたのですね。その後、2016年にいよいよ「SHOGUN BURGER」がオープンします。どのような理由でSHOGUN BURGERを始めたのでしょうか。

本田氏)私自身とてもハンバーガーが好きで、いつかやりたいとは思っていたんです。はじめは5坪ほどのカウンター4席のお店からのスモールスタート。焼肉屋で出た肉の端材をミンチにしてハンバーグのパティを作り、バンズは近所のパン屋さんに焼いてもらいました。当時のいわゆるグルメバーガーの店が無かった富山では大ヒットしまして、毎日行列ができるほど多くのお客様に楽しんでいただくようになりました。

1号店のオープンから2年後に新宿・歌舞伎町へ2号店をオープンさせました。ちょうどコロナが流行する1年前です。

記者)新宿は東京の中でも一等地ですが、歌舞伎町を選んだ理由は何だったのでしょうか?

本田氏)SHOGUN BURGERはどのレベルなのか、ハンバーガーの本場であるアメリカへ確かめに行き、そこでいろいろなお店を食べ歩きました。そこでSHOGUN BURGERは世界で勝てるブランドであると自信を持ったんです。だから、当時インバウンドが非常に活発な時期で、ニューヨークのタイムズスクエアにどことなく似ていて、外国人客が期待できる歌舞伎町を選んだんですよ。100万円越えの家賃を払うのも私にとっては初めてで、大きな挑戦でした。

元々SHOGUN BURGERという名前とロゴを考えたときには、世界に出すことを想定していました。周りのみんなには「それは絶対無理だろう」、「富山で1,100円のハンバーガーが売れるはずがない」とみんなに反対されていました。しかし私はアメリカで味わった本場のハンバーガーにも負けていないと確信していたので、絶対ヒットすると思っていました。

 

 

記者)満を持して東京進出ですね。富山発のグルメバーガーは、歌舞伎町の外国人に受け入れられたのでしょうか?

本田氏)それがはじめは全然売れなくて…。歌舞伎町のど真ん中にある無料案内所を改装した物件だったので、たくさん人が店の前を通るんです。しかしチラシを配っても誰も入ってこない。正直“SHOGUN”と“BURGER”を組み合わせたら海外の人の興味を引くと思っていたのですが、完全に当てが外れてしまいました。

記者)つらいスタートになってしまいましたが、そこからどのような対策を打たれたのでしょうか?

本田氏)最初はとにかく友人を呼びまくりました。20代前半のころは毎日のように飲んでいたので、新宿近辺に友だちが多かったんです。TEJI TOKYO時代の繋がりで飲食系の友だちも多くとにかく店に来て飲んでもらいました。3,4か月はそのような時期が続いて…1日に30人くらいしか来ないんですよ。つぶれそうになりながらも持ちこたえて、少しずつ売れるようになっていきます。

記者)それは何がきっかけだったのですか。

本田氏)フーディーと言われるグルメな方たちに試食をしてもらって、意見をもらいながら改善して行ったり、メディア関係にも働きかけたりもしました。

また当初の狙い通り、インバウンド狙いで外国人旅行者向けのレビューサイトはかなり手を入れましたね。TripAdvisorや大衆点評などです。Googleマイビジネス(現Google ビジネス プロフィール)も相当手を入れています。もちろんぐるなびや食べログもフル活用です。

そうこうしているうちに、本当に少しずつゆっくりと花開いてきてくれました。さらにいきなりテレビの取材が入ったと思ったら、海外向けレビューの点数がどんどん上がってインバウンドが伸びてきて。とにかく打ちまくった策が全部繋がってちょっとずつ成果を出してくれて、気がつけばいつの間にか行列ができるようになっていました。

 

 

記者)たくさん策を打たれた中で、何が一番成果が出たとお考えですか?

本田氏)全部です。みなさん一つの策に絞って対策すると思いますが、私たちはやれることは全部やるんです。費用が掛からないものからかかるものまで、思いつく限りです。それが違いではないでしょうか。

記者)売上が上がらなかった3~4カ月は厳しい時期だったと思いますが、その中でも諦めずに突き進めた理由は何だったのでしょうか?

本田氏)SHOGUN BURGERを信じていたということに尽きると思います。食べてもらった方全員がおいしいと言ってくれていたので、商品自体の魅力には自信がありました。コンセプトも刺さるはずなので、これは単純に知名度が低いだけだろうと確信していました。TEJI TOKYOの経験から、東京での戦い方は理解をしていたので、いずれ芽が出るのはわかってはいたので。

住民に怒られながら出前のポスティングもやりましたね。おかげで、夜のお店の人たちが来てくれるようになったんです。ちょっと危険な雰囲気のビルまで配達に行ったことも、今ではいい思い出です。

そういった地道な活動がすべてつながった結果、月間売上が1800万にまで到達するようになりました。絶好調のさなか、コロナですよ。

 

 

記者)そのタイミングだったのですか…実際にコロナの影響はどれくらいあったのでしょうか?

本田氏)正直大変でした。歌舞伎町がゴーストタウン状態になっていましたね。本当に誰もいないんです。

今では笑い話のようになっていますが、2020年の2月のコロナが騒がれ始めたころ、スタッフが7~8名原因不明の咳と高熱にうなされて、診断を受けてもインフルエンザではないと言われて。後からみんなコロナにかかっていたんだなとわかりました。インバウンドの最前線だった新宿ならではかもしれません。

記者)厳しい状況からどのようにして立て直していったのでしょうか。

本田氏)緊急事態宣言の頃には、Uber Eatsが軸になっていましたね。この時期の店舗は2人だけで回していましたけど、売上は初月で900万円くらい。SHOGUN BURGERではコロナ禍になる前からUber Eatsを活用していたのですが、当時は導入している飲食店があまりなかったので、かなり目立っていたと思います。とはいえUber Eatsの手数料もだいぶ取られるのですごく利益が上がったとは言えません。この時期は大家さんが家賃を半分くらいに下げてくれたのと、都からの協力金があったので、なんとか黒字にはできていました。

記者)非常に厳しい時期だったと思いますが、この時期にも将来に向けていろいろ取り組まれていたとか。

本田氏)そうですね。この時期はクリエイティブの方を整えることに時間をあてていました。

きっかけは、5年ほど前に青井茂さん(株式会社TOYAMATO 代表取締役)と知り合ったことです。当時から青井さんはかなりクリエイティブに力を入れていて、一緒に過ごす時間が増える中で、クリエイティブがよくないといい人材が集まってこないし、いい仕事も集まって来ないということに気が付きました。そこでちょうどコロナの影響で時間ができたのを機に、クリエイティブの改善にしっかり取り組みました。本当にそればっかりやっていましたよ。

 

≪次回予告≫

話題の焼き肉屋牛宮城の現在は!?本田社長が炎上騒動の裏側とSHOGUN BURGERの今後について語ります!