益子)飲食店業界に入ったきっかけを教えてください。
天野社長)エー・ピーカンパニー1号店のダーツバーで、米山社長にお会いしたのがきっかけですね。よく遊びに行っていた八王子のおしゃれなダーツバーで、最初はアルバイトとして働き始めました。裏路地にあるビルの3階か4階にありまして、キャバクラやスナックに囲まれている立地でした。僕はそのお店が好きだったのでどうしても売り上げを上げたいという思いがあり、人通りのある表通りまでキャッチをしに行ったんです。とにかくめちゃくちゃ声をかけて、めちゃくちゃお客さんを呼んで来ていました。
週3でバイトに入っていたんですが、店の月商が400万円のところ、僕が引っ張ってきたお客さんだけで100万円くらいを占めていましたね。
益子)400万円のうち100万円をひとりで!それはすごい。
天野社長)月次報告書に売上の内訳を書く場所がありまして、フリー客いくら、ホットペッパーいくらみたいに並ぶ中で、「天野100万」っていう項目ができてしまって(笑)。それを見て、エー・ピーカンパニーの米山社長が「キャッチのすごいやつがいる」と僕の存在に気が付いたらしく、急に目の前に現れてポケットマネーでボーナスをくれたんですよ。その時に「この人は頑張ればバイトでもちゃんと評価してくれる面白い人だ」と感じました。そこから「こういう大人になりたい」と米山社長に惹かれていって、アルバイトとして2年働いた後、新卒で入社しました。当時まだ新卒採用をしていない時代だったので、新卒0期生という形ですね。
益子)面白い大人としての米山社長に惹かれたということですが、他の大人とはどんなところが違って見えたのでしょうか?
天野社長)僕は元々体育の先生を目指していて、高校の教育実習に行ったことがあります。その時、一部の先生が仕事で楽をしようとしていたり、生徒に対する態度があまりにも悪かったりで人間性にがっかりしました。それで「ここは僕が目指すところじゃない」と、すごく失望してしまったのです。
しかし米山社長は、バイトの僕に向かって「俺は養鶏場を作ろうと思うんだ」とワクワクしながら企画書を見せてくれました。当時聞いても何もわからなかった僕に、スケールメリットなんて言葉を使って一生懸命に話してくるんですよ。その時、情熱をもってワクワクしている大人を初めて見て、それまでに見ていた大人との本質的な違いを感じました。
益子)とても大きなインパクトだったと想像できます。
そしてエー・ピーカンパニーに入社した後、どんなキャリアを歩んだのでしょうか。
天野社長)最初は「わが家」という地鶏の店に配属になりました。当時の飲み屋は客単価3,000円くらいの安い店か、10,000円くらいの高級店に二極化していて、いわゆるミドルアッパー層向けの店がありませんでした。そこで3,000円にプラス1,000円だせば格段に美味しいものを食べられる「わが家」はめちゃくちゃ売れました。
そこで店長を半年くらい務め、その後すぐに2~3店舗を管轄するマネージャーになりました。しばらくして執行役員になったのですが、この頃に大きな事件がありまして。
益子)その頃は「塚田農場」がどんどん拡大している、エー・ピーカンパニーとしても大きな転機を迎えた時期ですよね。天野社長にとってどんな時期だったのでしょうか。
天野社長)ちょうど僕が執行役員になった月が、エー・ピー・カンパニーがその後しばらく昨対を割り続けることになる最初の月だったんです。責任者だった僕は立て直しができなくて、執行役員を半ばクビみたいな状態になりました。執行役員が降格するって正直ダサいと思って、もう辞めてしまおうかと思っていた時期です。
益子)それは確かに大きな事件です。その時点で退職したのですか?
天野社長)いえ、僕が辞めそうという噂が社内に広まった結果、米山社長から「辞めるのはもったいないから海外にいかないか」という話をいただきました。提示されたのはハワイ、シンガポール、中国の3か国。その中から、広大でマーケットもまだまだ未開拓である中国を選びました。中国語はぜんぜん話せなかったんですけど(笑)。
益子)あえて中国を選んだのですね。進出は順調だったのでしょうか。
天野社長)店の場所は北京の三里屯(さんりんとん)という、中国の流行が全部集まるような都市でした。日本人は全然いませんでしたね。道を歩いていて日本人とすれ違ったことは一回もないと思います。塚田農場の和食特化みたいな業態で始めたんですが、最初はまったく売れなくて、大赤字の連続でした。とにかく味の好みが違うんです。
日本の塚田農場で人気が高い餃子鍋を中国で出したところ、現地の方にめちゃくちゃ怒られたんです。日本ではベスト3に入るような大人気メニューだったので、中国でも喜んでもらえると思っていただけに驚きました。味も値段もふざけていると。
益子)餃子でそこまで怒られるとは…場所が変わると味覚も変わりますね。しかしその後、中国の店舗は大きく成長しています。何がきっかけだったのでしょうか?
天野社長)塚田農場は世界中に店舗を出していて、それぞれの地域でヒット商品があるんです。その中にあったサンフランシスコのラーメンと、シンガポールの美人鍋の2つを持ってきて、メインの料理に据えたんです。そうしたらこれが大ヒットしまして。まさに大逆転といえるほど、本当にすごく売れてくれました。
この大ヒットの要因に、中国のネット文化があります。中国は本当にSNSやネットの口コミが発達していて、日本よりもずっと広がり方が早いんです。食べログみたいなアプリがあって、1日当たり平均7件の口コミが投稿され、月間200件以上の口コミがずっと続きます。
その口コミを見ると、料理が美味しいというのもありますが、日本人の僕が現場にいるというのがすごくウケていました。一緒に写真を撮って欲しいとか、連絡先を交換しようとかという誘いは日常茶飯事でしたね。人生で一番モテた時期です(笑)
益子)上がり下がりが激しくて濃密な中国時代ですね。約1年の中国生活だったそうですが、この期間は天野社長にどんな影響を与えましたか?
天野社長)この頃のエー・ピーカンパニーの本社には120人くらいの社員がいましたが、中国事業部には3~4人しかいなかったんですよ。役割分担なんてなくて、全員で物件を見て内装をチェックして、店員に教育をして料理の検討もして。全部自分たちでやっていたのは大変でしたけど、面白かったですね。
エー・ピーカンパニーも大きくなってきて、役割分担がはっきりしてきていた時期です。それだけに、昔の少ない人数でやっていたころを思い出していました。そうしたら急に自分でやってみたいと思う気持ちが芽生えてきたんです。それまでまったく独立しようなんて気持ちはなかったのに。
益子)ここで独立に繋がっていくのですね。独立後の一店舗目は「餃子マニア」ですが、最初から餃子をやろうと決めていたのですか?
天野社長)いえ、独立することが先に進んでしまい、業態は後付けでした。何をやろうかと考えたときに、北京で毎日のように通っていた餃子屋さんを思い出したんです。マンションの下にある屋台で、ベニヤ板の上で皮から伸ばして作っている24個で300円くらいの水餃子がとにかく美味しくて。このスキームを日本に持ってきたら面白いだろうなと考えていたのを思い出しました。
その店の店主に教えてもらおうとしたのですが、もちろんレシピなんてなくて、紙に書いてもらおうにもおじいちゃんが漢字が書けなくて(笑)その方たちにはすごくよくしてもらって、餃子の皮の伸ばし方を教えてくれるために実家にまで呼んでくれました。邯鄲(かんたん)という場所で、北京から電車で2時間、そこからさらにタクシーで1時間かかる田舎でしたね。道路も舗装されていない、トイレも共有、部屋に鉄格子があるようなところで2泊3日すごし、本場のレシピを教えてもらいました。
益子)そうして西荻窪に餃子マニア1号店が誕生したわけですね。ここで西荻窪を選んだ理由は?
天野社長)西荻窪の飲食店はとても厳しいマーケットなので、ここで業態を磨いた後に都心部に出ようという狙いがありました。でも、嬉しいことに開店から半年くらいでミシュランのビブグルマンをいただいたんです。実は開店直後と半年後ではレシピがだいぶ違っていて、味も全然違うくらい業態のブラッシュアップをして、自信が持てたので品川に2号店を出しました。
インタビュアー:益子 雄児 (株式会社ナシエルホールディングス顧問 元株式会社ROI 代表取締役)