記者)飲食業界に入られたきっかけを教えてください。
金本氏)正式に業界に入ったのは高校生の時です。僕が中学1年生の頃に母親と兄が焼肉屋の権利を買ってきて「焼肉天龍」の営業を始めました。時間があるときに店を手伝っていたのですが、それがすごく楽しくて。学校から帰ると頻繁に手伝いに行くようになりました。高校に入ってからは正式にアルバイトとして雇ってもらい、接客と調理を担当していました。
高校を卒業した後は、大学には進まずに働きに出ようと思っていました。元々ニュールックという会社は父が縫製業を営んでいた会社で、父の会社で縫製の道に進むか、焼肉屋を続けて飲食に進むかという選択肢がありました。正直いろいろと考えて悩んでいたのですが、父が「もう縫製の未来は明るくない。海外から安い商品が入ってくるし、縫う人もいなくなるから大変な業界になる」と話してくれたのです。また、飲食なら食べるには困らないということで、高校卒業後も焼肉天龍で働くことを決めました。
記者)その後多店舗展開を進められますが、どのような流れで2店舗目3店舗目を出したのでしょうか。
金本氏)当時はまだ積極的な多店舗展開を考えていませんでしたが、父の病気があまりいい状態ではなく、医者からも「早く縫製の仕事を辞めさせるように」と言われていました。当時の僕ら家族の家計は縫製業と焼肉天龍の2つの売り上げで成り立っていたので、父を休養させるなら焼肉の売り上げを伸ばさなければなりません。しかし当時の焼肉天龍はかなり繁盛していて、それ以上伸ばしようがない。そこで多店舗展開をすれば縫製業を辞めてもいいだけの利益が出せると踏んだんです。このときの計画では3店舗の展開を考えていました。
記者)3店舗という計画には、どのような計算があったのでしょうか。
金本氏)縫製業と焼肉天龍の利益が半々くらいだったので、計算上は焼肉天龍と同じ規模の店がもう一店舗あれば十分でした。しかし複数店舗を運営するために僕が店から抜けると、売上は3割くらい落ちるんじゃないかと考えたんです。なので7割くらいの店を3店舗出せば、70%×3=210%で、縫製業の分の利益をカバーできると考えました。これがちょうど狙ったとおりの動きを見せてくれたので、無事に縫製業を辞められています。
記者)その後も続々と店舗を増やしています。急速に店舗数を増やした理由は何かありますか?
金本氏)父が縫製業を辞めた後、両親がオーナーのまま僕が代表になりました。しかし代表といえども給料制だったので、あまり収入は高くありませんでした。もっと遊べる自由なお金が欲しかったので、収入を上げるためにどんどん出店を進めました。
また、出店にともない30歳くらいの若い店長たちに店を任せていたのですが、彼らは若いので長く在籍してくれるんですね。すると新しく入ってきた子たちが「僕らはがんばっても上がない」と言い出したんです。なので新しく入ってきた子たちにも新しいポストを作るために、さらに店を増やしました。そうして店が増えると、今度はSV、部長といったポストが必要になり、上のポストが増えるとまた店が必要になってくる。そういう循環が生まれて、店はどんどん増えていきました。ちなみに、このサイクルは今も同じような形で回っています。
記者)増やした店舗は焼肉天龍と同じ業態ですか?
金本氏)焼肉ではありましたが、業態は少し変えました。元々焼肉天龍は肉の質にこだわっていたので、客単価が高くて仕入れも大変だったんです。同じ業態の店を出してしまうと手間が増えてとても対応しきれないので、2店舗目は「あぶり屋」と名前を変えて、客単価を下げてお客さんが入りやすく、仕入れもしやすい業態でオープンしました。ちょうど牛角さんが話題になり始めた頃だったので、同じような低価格の業態に焼肉天龍のいいところをミックスさせれば当たるなという自信はありましたね。
記者)その後はあぶり屋の出店が続き、次の業態に移っていきました。どのような流れで業態を増やしたのでしょうか。
金本氏)あぶり屋の出店はほぼ居抜きです。作りたい店よりも、与えられた居抜きでどう作るかという店作りが続きました。そんな時に、関内にできる新築の飲食ビルに入るチャンスが巡ってきました。初めて訪れたスケルトンから自由に作れる店で、ましてやちょっと場所がいい店を作れる機会。ここぞとばかりに、僕がやりたいと思っていた3つのことを全部実現させる店として「匠家」を作ったんです。
3つのやりたいことの1つ目は、カウンター席をつくること。僕はどんな店でもカウンターが好きなんですが、一般的な焼肉屋さんはなぜか4人掛けのテーブル席がメインで、「カウンターに案内してごめんなさい」みたいな扱いになっちゃうんですね。僕はそれが嫌で、カウンターが魅力的で先に埋まるような店を目指しました。
2つ目は一切れ単位の注文です。焼肉屋は一般的に1人前単位で注文しますよね。でもひとりだったら1人前を2皿も頼んだらお腹いっぱいになってしまいます。そうではなくて、一切れ単位で注文できるように“一切れ100円”のような価格設定で、いろいろなメニューを楽しめるようにしました。
3つ目は美味しいワインを置くこと。当時の焼肉屋の多くは、ワインは赤か白しかなくて、温度管理なんかもされていない冷蔵庫でキンキンに冷やしたワインをグラスで提供していました。せっかく肉を売っているのに、これはもったいないじゃないですか。だからしっかりお金を掛けてワインセラーを作り、肉とワインを一緒に楽しめるようにしました。
これらの理想は、客単価7,000円くらいのアッパー狙いというコンセプトの店を実現するために必要不可欠でした。施工の1年半くらい前からいろいろ設備やら内装やらに手を入れて、出店費用は全部で1億円くらいかかったと思います。ところがオープンの直前にリーマンショックが来ちゃいまして。期待していたターゲットのアッパー層が全く店に来ないのです。狙いが全部外れて借金ができてしまいました。
記者)それは大変な不運でした。
金本氏)タイミングが悪かったですね。もしリーマンショックがなかったとしたら、まあまあうまくいっていたと思うんですよ。しかし現実に起こってしまったので、高級路線は無理だなと実感しました。一方で、このときに、真逆の大衆酒場をつくろうと思って始めたのが「もつしげ」です。焼肉しかやらないと言っていましたが、それとは違うことをしようと生まれた業態です。
記者)怪我の功名といってもいいかもしれませんね。出店のエリアは同じ関内ですか?
金本氏)大衆酒場の街である横浜と野毛に出して実力を見たいなと思って挑戦したところ、うれしいことに結構売れてくれました。この頃野毛全体が盛り上がりを見せていたので、新しく出た2つの物件も勢いに乗って一気に借りてしまいました。しかし、同じような場所にもつしげを作ってももう集客は難しいだろうと思ったので、1つは元々温めていた「ホルモンセンター」を開けて、もう1つはタッカンマリという韓国料理を出す「野毛とりとん」を開けました。結果として、この時期に弊社の主軸となる「焼肉」、「もつ煮込み」、「ホルモン」、「韓国料理」の4業態が出揃った形になりました。
記者)時流をつかんでピンチから一気に逆転されました。一方で売上が厳しい関内の高級焼肉はその後も経営を継続されています。これはやはり金本社長の思いが詰まった店だから踏ん張ったのでしょうか。
金本氏)匠家の運営を今振り返ってみると、経営者失格だったと思います。オープンしたのは12、3年前で、当時年間3,000万円くらいの赤字を5年ほど出し続けていました。普通ならすぐにでも閉めるお店ですが、思いを詰め込みすぎたので手放したくなかったですし、繁華街にある豪華なお店のオーナーと見られるかっこよさが捨てられなかったんですよ。