株式会社 SOME GET TOWN 代表取締役 山崎一氏インタビュー(前編)ビブグルマン獲得「韓国食堂 入ル(イル)」のルーツ

「朴三淳で世界へ。サムゲタンを世界へ。」という理念のもと、ミシュランガイドのビブグルマンを2店舗で獲得した株式会社SOME GET TOWN。名物・参鶏湯とルーツである母親の価値観を広めようと志す山崎一社長にお話を伺いました。


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益子)まず、どんな事業をやっていらっしゃるのか教えていただけますか。

山崎社長)飲食店舗を運営している「株式会社SOME GET TOWN」と、韓国食材の卸、アパレル事業を行う「株式会社オレナイス」という会社の代表取締役を務めています。飲食店舗は、大阪に2店舗、京都に1店舗、東京に1店舗の計4店舗です。

その中に、もともと両親がやっていた「韓味一」を引き継いだ「韓味一 朴邸」というブランドと、それをアラカルトにした「入ル(イル)」というブランドがあります。それと、7月に「蔘鶏湯 人ル(ニル)」というブランドがオープンします。大阪の「人ル(ニル)」は、もともと「韓味一」の本店で、そこを改装して本店にします。年内に京都と東京にもオープンする予定です。

益子)ご両親がやっていた「韓味一」とは、どのようなお店なのですか?

山崎社長)母親は朴三淳(パク・サンジュン)といって、韓国出身で今年81歳なんですが、1968年に韓国の国家調理技能試験に女性で初めて合格した人です。それで27歳で韓国の料亭で最年少の副料理長を務めていました。そこから、「新羅会館」の初代料理長として日本に来て、父親と結婚して1978年に「韓味一」をオープンしました。

僕はもともとスポーツ関係の商社に勤めていたんですが、2010年に実家に帰って「韓味一」で一緒に働き、2年後に2代目として事業を受け継ぎました。2013年に大阪の福島に「入ル(イル)」がオープン、2017年に「韓味一 朴邸」という店をオープンしました。その年に「入ル」がミシュランガイドのビブグルマンに初めて選ばれて、その2年後に東京の「入ル 坂上ル」がその年のミシュランガイドに掲載されました。

益子)山崎社長が実家に戻られて継いだときには、1店舗だったわけですね。

山崎社長)そうです、今はもうクローズした「韓味一」だけです。当時は1階から3階までで80席あって、一番忙しいときはそれが毎日2回転する完全予約制の店だったんです。税別6,000円の1コースだけで、あとは母親の気分で多少メニューが変わるような、昔ながらの店ですよね。

益子)なるほど。最初からキッチンに入っていたんですか?

山崎社長)いや、1年間はホールをやっていたんですけど、くさってました。キッチンは引継ぎ資料もないし、「そんなの出来るわけないやん」って。でも1年間経ってからそろそろヤバいなと思って料理の勉強をし出そうと思って、母親について市場にもいくようになったんです。母親のルーティンは、朝6時に市場に行って、9時まで一部の仕込みをするんです。そこからランチを食べて休憩して、次に15時から16時まで残りの仕込みをして、17時に営業を始めます。ということは、僕の狙い目は9時~15時までで、僕が15時までに全部仕込みを終わらせて、オープン前に味見してもらうっていう流れがキッチンに入ってから毎日続いていました。

益子)その店の名物が、サムゲタンだったんですか。

山崎社長)いえ、「韓味一」は当時は完全予約制コースのみだったのですが、最初からそうだったわけじゃなくて、17時から朝5時まで空いているアラカルトの店だったんですよ。そこで有名だったのが、てっちゃん鍋と水餃子だったんです。ただ、メニューがあまりにも多すぎて何を頼めばいいかわからないからコースを作り、そしたら評判が良くてコースしか注文が入らなくなって。お客さんが予約で来たらまた次の予約をして帰るっていう、自然に完全予約制の店になって行ったんです。

もともと「韓味一」は父親と母親が始めた店でしたが、父親は僕が16歳のときに倒れてそこからずっと療養中で、お店は母が切り盛りしていました。その事業を継いだんですけど、母から「あんたに継いでもらう」って言われたわけじゃなくて。実は当時、僕と母親と関係がすごく悪くなっていたんですよ。

そのころすでに僕がほとんどの料理を作るようになっていたのですが、母親は職人なのでなかなか認めてくれない。お客さんが、「お母さん、そろそろ息子さんに料理教えたらな大変になるで~」とか言われると、母親は「そうですね~」とか言っていて。それを聞きながら僕は「いや、実際やってんの俺やからな」って思っていました。

だんだん、自分で店を出したくなってきて、1人で物件の契約までいったんですよ。最後に保証人になってくれって書類を母親に出したら、「店もやったことないのに何考えてんねん!」って、突っぱねられて。それだったら店継がせてくれって言って、奪い取ったような形なんですよ(笑)

益子)そうなんですか(笑)

山崎社長)そのときに、「1つだけ約束してほしい」って言われたのが、「お客さんが“美味しくない”って言ったら謝ってくれ」って。それが唯一の約束なんですけど、その約束は今でも守ってます。

親父が元気なときに、「俺が料理を作ってて、営業中だけ妻を店に入らせてんねん」って、お客さまに嘘をついていたんですよ。そしたら、それを鵜呑みにしたお客さまは、「おかあちゃん、おとうちゃんがおらんかったら全然店まわらへんやろ!?」って言い出すわけですよ。そのお客さまに、「おかあちゃん、味変わってもうたの~、「韓味一」ももう終わりか」って言われたらしいんです。でも、ずっと作ってるのは母親なんですよ。でも、美味しい美味しくないはお客さまの決めることだから、「ごめんなさい、もっと料理勉強します」って、母親は謝ったそうなんです。それぐらいお客さまの口なんていい加減なものだと。ただ、あんたは別の人が作ることになるんやから、「美味しくない」って言われたらすぐ謝れって。「そんなことない!」なんて絶対言うなって、それだけ約束させられました。

益子)深いですね、そのひと言は。

山崎社長)うちは母親の朴三淳の考えに基づいて店をやっているんです。「朴三淳で世界へ。サムゲタンを世界へ」というのが理念なので、まず朴三淳が日本という違う国に来て、どんな人生を歩んできたら、どんな思考で仕事をしてきたかを勉強した上で、料理をしましょうって言ってるんです。そういう文化、理念教育はスタッフたちはめっちゃやってます。

益子)次に、大阪に「入ル」を出店するわけですよね。

山崎社長)この時点で、「韓味一」はちょっと下火になってたんですよ。代替わりしていないから、お客さまも高齢になっていてコースもボリュームがありすぎて食べられへんってなっていて。これはアラカルトにしないと次のお客さまが増えないなと思って、コースをアラカルトにして出店したのが、「入ル(イル)」なんです。

益子)最初から、「韓味一」の2号店ということで大繁盛したんですか。

山崎社長)いや、「韓味一」の2号店だということは極力伏せて営業しようと思ってました。それを言わなくても流行らせたいと考えていたんですよ。

益子)「韓味一」は年齢層が上がって下火になったとしても、「入ル」は爆発的に流行ったわけですから、普通に考えると「入ル」の店舗展開を3号店、4号店って一気に出していくことも考えられるじゃないですか?そういう考えはなかったですか。

山崎社長)それはなかったです。母親の思いとかをわかってくれる人じゃないと、店をやっていけないから、広がって行かないんです。ただ料理が上手くても意味がないんですよね。だからうちの全店長は、自分から母親にアプローチして歴史とかも勉強してます。どちらかというと、うちはストーリーを食べてもらうのが大きいですね。今働いている子たちも、母親のことをちゃんとわかってない人に料理を教えたくないって言いますもん。

益子)お母さまの味とポリシーがあって、それを継いでいけばその先があるということは想像がつくんですけど、反発して商社に入ってから戻ってきて1年馴染めなくてダラダラしていた状態からの出店じゃないですか?結構短いですよね。

山崎社長)これは、飲食じゃなくて人間の生き方みたいな話になるんですけど、結局そのときにいくら反発していても、自分がいざやろうと思ったときに、「あ、あの人の言ってたことってまんざら間違いでもなかったな」っていう場面にいっぱい出くわしてしまったら、それって生き方に影響してくると思うんです。

母親は、「仕事中は仕事のことしか考えたらあかん」って言うんですよ。「わかってるわ、そんなん」って思うんですけど、手を切ったりするんです。そういうときって、やっぱり違うことを考えてるんですよね。そんな場面1つとっても、最初の1年間でそういうことを感じることが多かったんです。当時一番言われてたのは、「損して得取れ」ということで。「お客さまが800円ならこの量しか盛ってくれへんやろうなって思ってたら、その1.5倍盛れ」って言ってたんですよ。それとか、うちは駅からタクシーで5分ぐらいの場所にあって、支払いは現金だけだったんですけど、母親は幹事の人が支払った現金から1,000円を渡して、「これでタクシー乗って帰り」って言うんです。その1,000円が10万円を生むからって。そういうことを目の前でやられていたから、「損して得取れ」っていうことがすごく身に染みてくるんですよ。

益子)それを、すごく短い期間で習得して、自分なりに新しいことを始めるっていう密度の濃さがすごいなって思います。

山崎社長)会社のスタッフには、「右手に人間力、左手に料理」って言ってるんです。その2つがあれば店は続くって。どちらか1つだけじゃなくて、両方のバランスが良い店が素晴らしいっていう。それが朴三淳の考え方なので。でもね、じつはあんまり親だと思ってないんですよ(笑)。親と思うとちょっとしんどいから、今でも「おかみさん」って呼んでるんです。ちょっと人格を変えてた方が楽なんですよ。「朴三淳っていう人の血縁」っていう感じで思ってます。

益子)偉大なる料理人かつ経営者っていう、そういう人との出会いは貴重じゃないですか。それがたまたま母親だっただけで。

山崎社長)母親の考え方、イズムを踏襲したいから、外食産業でもっとジャンプアップしようと思ったときに、今まで行けなかった部分はあるんです。外食産業で店舗展開するとある程度血は薄まることを覚悟しないといけないじゃないですか。じゃあどこまでが許せるねん、というところであんまり踏ん切りがつきませんでした。

でも今回「人ル(ニル)」で出店していこうというのは、スタッフもそのイズムがわかってきたというのもありますね。今は、これだけ良い考え方を持っているなら、1度どこまで広まるかやってみようという感じです。

益子)東京進出したのはどうしてだったのですか?

山崎社長)スタッフのひと言からです。ミシュランを獲ったときにOB、OG、業者さんを全部呼んで、「いつもありがとう」ってパーティーをやったんです。そのときに来ていたアルバイトの女性スタッフから、「東京で「入ル(イル)」を出す話とかありませんか?」って言ってきたので、「あなたが出したいならサポートするよ」って言ったら、ほんまに真剣に店を出したいと言って、不動産やビジネスモデルのこととかを考えてくれて、プレゼンしてくれたんですよ。それだけ思ってるんやったらやろうやって始めたのが恵比寿の「入ル 坂上ル」です。

益子)大阪福島の繁盛店といっても、恵比寿での知名度はないですよね。大変だったんじゃないですか?

山崎社長)まったくなかったです。2019年のオープン初日、最後に来た人が「今日オープンしたバーですか?」って入ってきて。バーちゃうわ!(笑)。

益子)恵比寿の線路沿いの坂を上がっていってビルの3階ですから、なかなかお客さんを引っ張れないですよね。

山崎社長)僕はそういうのが何もわからないんですよ。でも、「お客さまが1人であろうと2人であろうと思いを届ける作業を必ずやっていればいつか花が咲く」っていうのが母親の考え方なんです。それはオープンのときにスタッフにずっと言ってました。

益子)1月オープンで、いつから流行り出したんですか?

山崎社長)9月ぐらいでしたね。そこから、「東京カレンダー」が取材にきて、「ブルータス」
がきて、「ミシュランガイド」がきて。そのときの「ミシュランガイド」がたまたま女性シェフ特集をやったんですよ。それでうちのスタッフが選ばれてインタビューされて。それでトントン拍子で来て、コロナになったんです。

益子)京都は去年の5月にオープンしたそうですが、なぜ京都だったんですか?

山崎社長)当時の大阪の店長の子が、営業が終わってから僕に「2階の店なかなか階段きつくて腰痛いんです」って言うんです。「ああ、じゃあワンフロアで店やったら?」ってやることになりました(笑)。うちは人を先につけて、そこに箱を付けていくだけなんで。自分たちが作るから、思い入れが強いんですよね。

益子)今度オープンする大阪の「人ル(ニル)」はどんな業態なんですか?

山崎社長)「韓味一」は完全予約制のサムゲタン、大阪と東京と京都の「入ル(イル)」のコンセプトは予約無しで当日食べられるサムゲタン。次の大阪の「人ル(ニル)」のコンセプトは「韓味一」のサムゲタンを1人で食べられるというものです。1人で食べられるサムゲタンは世の中にありますけど、「韓味一」のサムゲタンを1人で食べられるのはここだけです。それが7月26日オープンです。

益子)1人客を想定しているということは、カウンターだけですか?

山崎社長)僕が店舗を作るときはいつも、「価値観を広める」ことにフォーカスしてるんですよ。日本にこの価値観があったら面白いやろうなって。「人ル(ニル)」はお寿司屋さんみたいな感じです。客単価2,000円やのに、L字型の白木のカウンターで、18坪に8席だけで。ビジョンとしては、「人ル」の本店は8席しかないから、あわよくば行列店にして、京都、東京も展開しやすいと思っていて。それって料理じゃなくて、「行列ができる店」という価値観ですから。価値観を作ることは大事なんですよ。

インタビュアー:益子 雄児 (株式会社ナシエルホールディングス顧問 元株式会社ROI 代表取締役)

後編につづく